『葛の松原』支考 名句のできるとき

芭蕉庵の翁、一日たふえん*1としてうれふ。曰く「風雅の世に行われたる、たとへば片雲の風に臨めるがごとし。一回(ひとたび)は走狗(((黒い犬))となり、一回は白衣となつて、共にとどまる処をしらず。かならず中間の一理あるべし。」とて、春を武江*2の北に閉給へば、雨静にして鳩の声ふかく、風やはらかにして花の落ることおそし。弥生も名残をしき比にやありけむ、蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、「蛙飛こむ水の音」といへる七五は得玉へりけり。晋子*3が傍らに侍りて、山吹といふ五文字をかうむらしめむかと、およづけ侍るに、唯「古池」とはさだまりぬ。

但し、上記は客観性・事実性の点でかならずしも信をおけるものではなく、それを根拠として制作の、あるいは作品内の時節を定めることはできないこと、したがって晩春とされる場合も少なくない此の句を、啓蟄の頃の景としてもなんら問題ない*4

高濱虚子は

それは春になって、春もやや整ってきて、桜がほころびはじめ草木が芽を吹いてくる頃になると、いわゆる啓蟄の頃となって、今まで地中にあった虫が一時に活動を始める。蛙もまたその一つである。沈潜していた古池の水も温みそめ、そこにかわずが飛び込む。そのことは四時循環の一つの現れである。天地躍動の様である。芭蕉はその平凡なことのうちに深い感動を覚えた*5 

 

*1:茫然の意

*2:江戸

*3:其角

*4:高山れおな『切字と切れ』144p

*5:「虚子俳話」朝日新聞1955・6/5