『甘雨』兼久ちわき 第1章 直系

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『甘雨』は兼久ちわきの第二句集。著者は、馬酔木・早苗同人。

平成17年より29年までの編年体で編まれている。

 

一鋏に蠟梅強き香を放つ 

剪定により、香を増した、というところが詩情。

水仙花挿して直系疑はず 

秋櫻子からの直系か、女系の直系か分らないが、いずれにしても自負の強さを感じる。これが水仙花というそこまで主張の強くない花と呼応して、密やかな自負を感じるのだ。

渦が渦呑みて太りぬ春の潮 

鳴門か。もしくは門司のあたりか。皆見ている景色であろうが、「呑んだ」と表現し、さらに「太った」とするのが、作者の確かな発見である。

葭切の声割つて入る手漕ぎ舟 

確かな描写。その他もそうだが、「割っている」等の動詞の使い方に発見が見られるからだろう。

尾を振つて仔豚駆けくる五月晴 

子豚の尾という細かいところに目を付けたのが正解。五月晴の感じが出ている。

人込みを抜けニコライの鐘涼し

御茶ノ水だろう。「人ごみを抜け」の描写が時点のズレを表し「今」を描写する俳句の原則から外れているかもしれないが、対比がよい。雑多なものと神聖なものの同居。

逝く夏の碧さをとどめ海蛍

海蛍は美しい。見たことがあるものであればわかる。それを「逝く夏の碧さ」と象徴させた点が良い。

風の道辿りて稲穂起し刈る 

「起し」が描写の確かさ。野分のあとであろうか。

石叩石の棺を覚ますかに

飛鳥であろう。悠久の時を感じる。

枯れてなほ蟷螂の眼に夢の色

「蟷螂の眼の中までも枯れ尽くす 誓子」がある。誓子は何もかも説明し尽くさないとすまない病的な感じがするが、この句は「夢の色」としたところに、甘さと救いがある。

箸触れてゆづる気はなし闇汁会 

まず闇鍋という独特の季語を持ってきたこと。これが見えている状況であれば、相手に遠慮して社会的な配慮をするかもしれないが、そこに闇鍋の面白さがある。本意を捉える。

無医村の風を一手に武者幟 

「一手に」がよい。無医村ときて何が来るかと思えば武者幟までの意外である。

織り上げて藍の涼しき木綿縞 

全体に涼しさの伝わる佳句。

流し索麺待つ真みどりの風の中

風がみどりであると感じたのがよい。 

幟山笠舁く玄海片男波

二物の衝撃がよい。片男波としたところで、荒々しさが見えてくる。

風死して禱りの八時十五分

刻まれし日のみな同じ墓洗ふ

広島忌。物に語らせて哀切。

法被脱ぎ捨てて浜つ子草相撲

ジョーカーはわが掌中に夜の長し

いずれも楽しい句。後句は高揚感が伝わる。

霧ごめのランプ囲めり手風琴

俳句好きには登山趣味が多いらしい。

篝火に五橋浮き立つ霜夜かな

あとでも篝火が出てくる。 

蓮根堀産婆のごとく取り上げぬ

産婆のごとくが確かである。 

蓮の骨焚きて泥の手温めをり

ある意味で忌を修しているといえよう 

追儺火の盛りていよよ潮速し

いよよが好みの分かれるところ。

目薬の逸れて卯の花腐しかな

後ろより声かけ放る早苗束

この辺は実体験がないと詠めない。

夕焼の石に噛まする爪碇

爪まで描写したのがみそ。

子に夫につぎて線香花火かな

愛。

柿囓り大師の嶺を越えにけり

高野山か。

一山を日溜りにして蜜柑黄に

和歌山だろう。

ダンス靴なじみて稽古始かな

なじみてが確かに新年の始まりを思わせ、「稽古始」の本意に叶う。

料峭や見えゐて抜けぬ棘ひとつ

これは、写生にとどまらない。

日がな空見て老猫の恋しらず

否定形に発見が見える。

コッヘルに沸かす珈琲雪解風

登山だろう。

代掻きの泥にまみれて孕み牛

牛を見ることも減った。孕んでいる・どろにまみれてというのが、よく見ていて、かえって愛情を感じる。

篝火の爆ぜて籠の鵜逸りけり

この辺は好みであろう

鷹柱解く魁の一羽かな

発見。「あり」で切ってもよいのではないかと思う。

手を添へて母にも踏ます霜柱

「にも」が愛情である。

 

全体に見ると、第一章に良い句が多い。