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中村國司 明日も生きてゐる感じ 夏

kanchu-haiku.typepad.jp

夏 

早む瀬に五月の光透りけり

馬酔木調。透りけりでよいのか。類想がありそうだが、景が見える。

おほどかに蟻を這はせし子の眠り

優しいまなざし。

筍とよぶぎりぎりの背の丈

「たけ」がわずかにリフレインしているのも技法だろう。あるいは「たかんな」と読むのかもしれないが、この場合は「たけ」が良いと思う。率直な感想がそのまま発見になっているのがよい。

貫徹の巨人嫌ひにビール注ぐ

ビールと野球がつきすぎだと思うが、巨人嫌ひが良い。しかも貫徹で深みと生きざまが伝わる。

滴りに差し出す手と手触れてゐる

「ゐる」が多いのが作者の特徴と思う。馬酔木などは「立つ」などと硬く固定するのに比べ、柔らかい感じ。その柔らかさによって、「手と手」も柔らかい感じになっていて、そこに滴りという一過的・直線的な硬さのあるものがぶつかる意外。

世の中の常は唐突がまがへる

観念句。だが、作者の苦悩が偲ばれる句だ。不思議な実感がある。

清水汲む塞の神にも声掛けて 

塞の神」もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神であり、道祖神の原型とされる(Wikipediaより)

身近な汲井なのだろうが、感謝を忘れない。

流木のとどまつてゐる滝の上

筍の句もそうだが、ぎりぎり境界にある微妙な存在というのは詩心をくすぐる。つい目が離せなくなるのは性だろう。

雨の中雨の匂ひの薔薇を剪る

竹皮を脱ぐ婚礼の日の未明

黙祷の闇の中まで百合にほふ

いずれも抒情的。

自転車を押して涼めり海の町

不思議と捨てがたい。漁港か。海風の匂のしてくる句。

捩花のねぢれて芯を通しけり

一物仕立ての句。よく見た発見が確かに頷ける。

立葵これから逢ひにゆくところ

「逢ひ」だから恋人にあいにいくのであろう。抽象的な想像が膨らむ句を、立葵の斡旋でまとめているのが見事。

口づけを山が見てゐる夏祭

青春の抒情。かつ、遠景の青嶺と祭の中景と口づけの近景があって、躍動している。

薔薇大輪どこまで近寄ればよいか

薔薇大輪の字余りに、作者の驚きが見て取れる。同旨を中七下五でさらに細かく描写がある。

「薔薇」という存在を固定し、さらに細かく、どこまでも重なっているように見える薔薇の奥の奥まで覗き込むような、万華鏡にも似た、眩暈を起こさせる描写。

灼熱の一塊となり草むしる

「灼熱の一塊」と己を捉えたのがプロの技。

反対と賛成のある草いきれ

「世間には」という語が省略されている。

隅田川音なくながれ油照

堪えがたい油照らしい。

山里は総出の祓へ月見草

月見草は甘い調べを持つ花だ。待宵草ともいう小さな黄色い花。この句は、みちのくの閑散とした村か。いまだに総出で何かをするという

村は古風であり、それが月見草と響き合う。

道をゆく人に声かけ袋掛

も同様の望郷の思いを誘われる。

黴匂ふ部屋泣くなと云ふ部訓 

部室で切れている。がわかりにくいか。こういう句がよめるのは、周りに学校関係に携わっているからだろう。

煙草屋に金魚の棲まぬ金魚鉢

違和感は俳句になる、といっていた俳人は誰であったか。この場合の「金魚の棲まぬ金魚鉢」もそれ。これが煙草屋にあるというのも場末感があってよい。煙草屋はトンと見ないが、昭和レトロ。

見てゐても見てゐなくても水澄

そこにある(いる)ということは、確かにある(いる)ということであって、それ以外の何物でもない。逆に存在の危うさも問うている。

肩に手を置いても他人月下美人

人違いだったとは解釈するべきではない。もっと抽象的な話をしている。どれだけ近くても他人は他人。わかりあえないものはわかりあえない。そういうと絶望しかないようだが、季語の月下美人が救いである。