明日も生きてゐる感じ 春

中村國司『句集 明日も生きてゐる感じ』2017年3月
文學の森


 『明日も生きてゐる感じ』は中村國司(1949 - )の第1句集。跋:白岩敏秀。

 作者は「白魚火」同人。

料峭や寄れば薄荷の匂ふ唇

日野草城調。私は好きだが、好みが分かれそう。

蒼穹を岳をななめに燕来る

わたしなら「来ぬ」で切る。描写が確か。リフレーンが聞いている。

蝶の翅聖書のごとく開きたる

薄氷をひとゆすりして舟の波

これも描写が良い。聖書のごとくが発見。

古老言ふ白鳥帰る日は明日

タイトル含め、私は明日を「あす」と読ませたい。とまれ、この句は抒情だ。源義風の民俗学的なところがある。

来ぬ人は足音もなし春炬燵

は、よくわからない。

勇気とは声を出すこと初雲雀

赤心といふは詩語なり夕桜 

観念句もさえている。即応。

みちのく 6句は感傷に流されず描写に徹した点が良い。

冴返る地震一年後の半旗

わたしなら地震は「なひ」と詠みたい。楸邨の名句を筆頭に、おおよそ「なひ」だろう、

薄氷に映るものなし名取川

鉄塔の下を聳えてゐる土筆

挽歌であり、東歌であり、復興への祈りもあろう。

卒業の目が先生を見詰めゐる 

口語俳句にも近い。その中にもしっかりした描写がある。半面、俳句を読んだという実感には乏しい。

ものの影失する六本木の余寒 

破調。不思議と現実感のある描写。

陽炎を出でて真つ直ぐ父来る 

あるいは父は自分自身であろう。半生を振り返っておられるのかもしれぬ。

弟は別の帰路ゆく花曇

詩情がある。仲たがいを俳句化し、かつエールを送っているとまでよむのはよみすぎか。

抱卵の鶴の仰げるとのぐもり

近景・中景・遠景と遠近法を使いつつ、鶴の母性と仰ぐ姿や鶴の眼が浮かんでくる。

花びらは掌中にありむかへ酒

むかへ酒と離れている気がするが、色気がある。

よき距離に父と子の家菊根分

菊根分と響き合っていてよい。これは実感だろう。嫁と姑ではなく、父と子

だからよいのである。

長閑さを愛づる娘に育ちたる

切った方がいい。嬉しさが伝わろう。あくせくしている娘よりよいが、嫁に行かないと品敗なのは親心。

渓流の色に染まらず花鯎

否定形が見事。牧水のような句で、馬酔木調の叙情。

陽炎の無色に燃ゆる滑走路

無色が発見。燃えるも発見だが、少しくどいか。省略を聴かせたい。

見送りの帰りはひとり春の月

別れねばならぬ辻まで春の月」は類想があるので、こちらのほうがよい。

はなれ見て人はうつくし山桜

近くで見ると醜いからな。

陽炎を振り向くこともなく漁師 

下三での破調が多いが、その句がわりと印象に残る。漁師のひたむきさが伝わる。

にはたづみ四月の噓を思案中

俳諧味があってよい。にはたづみが行方も知らぬの枕詞となることも参照。

花仰ぐ仁王足下の天邪鬼

下五に名詞があった方が調べとしては安定する。これも滑稽。

惜春や巡査は笛を二度鳴らし

東京だろうか。何に鳴らしたのだろうか。想像が膨らむと同時に、惜春の具体化として、ゆるぎない。