俳句

「俳句は切字ということーむしろ『切』の問題を」(「国文学」1976年2月号)

古典主義とは本来精神の継承を意図するもので、形式の踏襲に執するものではない。(西垣脩)*1 *1:古典が好きだが、よくよく気をつけなければなるまい

落葉松はいつめざめても雪降りをり 加藤楸邨

雪の上に雪降るのみの夕磧

縄跳の地を蹴る影の長さかな 縄跳の地を蹴る影の軽さかな

鰭酒を熱く注ぎ足す波郷の忌 放たれて鷹の高舞ふ夕磧 放鷹のひかり高舞ふ夕磧 放たるる鷹の高舞ふ夕磧

連山に雪降る中へ鷹放つ 連山に雪降れば鷹放ちけり 草原に雪降るる中鷹放つ 放たれて雪の刺羽となりにけり 放たれて雪の猟犬駆けりけり 放たれて鷹の高舞ふ雪の中 放たれて雪に高舞ふ蒼鷹

葉牡丹や象のはなより水やる子 室咲や象の鼻より水やる子 春待つや象の鼻より水やる子 小春日や象の鼻より水やる子 冬麗や象の鼻より水やる子

永き日の画布の林檎に白を足す 初夏の画布の林檎に碧を足す 雲の峰画布の林檎に碧を足す 梅雨晴間画布の林檎に碧を足す

『葛の松原』支考 名句のできるとき

芭蕉庵の翁、一日たふえん*1としてうれふ。曰く「風雅の世に行われたる、たとへば片雲の風に臨めるがごとし。一回(ひとたび)は走狗(((黒い犬))となり、一回は白衣となつて、共にとどまる処をしらず。かならず中間の一理あるべし。」とて、春を武江*2の北に…

どれにも日本が正しくて夕刊がばたばたたたまれてゆく 栗林一石路 どのみちも雪道となり暮れゆくや 棟方志功 頸ほそき坑夫あゆみくるそのうしろ闇にうごきゐる沼とおもへり 石牟礼道子 われはもよ 不知火をとめ この浜に いのち火焚きて 消えつつまた燃へつ …

星屑を載せ初糶の鰤跳ねる 寒鰤の星屑載せて糶られけり 星屑を載せて寒鰤糶られけり 星屑の載る寒鰤を糶り落す

寒雁のひとこゑ空の藍深む 寒雁のこゑ夕空の藍深む

ひとこゑに炎揺り立つ修二会かな 闇を曳く炎揺り立つ修二会かな ひとこゑに炎揺り立つお松明 宵闇はどんどの炎揺り立たす 海原の闇に揺り立つどんどかな 笛の音の火の秀揺り立つ薪能 笛の音に炎揺り立つ薪能 笛の音に闇揺り立ちぬ薪能 笛の音に影揺り立ちぬ…

掌に傷負ふ鳥や神無月 掌に傷負ひし鳥春を待つ 手の中の傷負ひし鳥春を待つ 掌の中の小鳥や聖五月

抱き上ぐる咳の子よりも咳き込みて

寒柝や吾子の寝返る腕の中

歌ふ子

歌ふ子と籠持ち帰る苗木市 うしろより初旅の子の歌ふ声 乗初やうしろより子の歌ふ声

深雪降る吉野の岳の雲深し

嵐吹くひとり寝る夜の寒さかな

読初の光源氏の須磨の巻 読初の光源氏の須磨にをり

七草粥

夢に逢ふ父母若し風邪籠 ぶれている。インフルエンザ罹患。

笹鳴のひと声空の藍深む

逢ふ人のぬくもり失せぬ春の夢 夢に覚めははのぬくもり失せる春 夢に見しははの温もり春の雪

初夢

初夢の織田信長と斬り結ぶ

抱く吾子に影の生まるる初茜 抱く吾子に影生れゆく大旦 抱く吾子に影生れゆく初日かな 抱く吾子に影生れゆく初茜 抱く吾子に影の生まるる初日かな 動くもの影を生みゆく初日かな 動くもの影を曳きたる初日かな 天地に影生れゆく初日かな

築地本願寺

初鏡

うしろより子の見る妻の初鏡 うしろより覗く子妻の初鏡 覗く子の右に左に初鏡 子の覗く笑顔の写る初鏡 子の覗く顔や妻持つ初鏡 子の笑ふ顔や妻持つ初鏡 肩越しに吾子の笑顔や初鏡 肩越しに吾子の顔出す初鏡 肩越しに子の笑ふ 顔初鏡

左義長

留置所に差入れ仕事納かな どんど焼こゑもて火の秀揺り立たす どんど焼こゑもて炎揺り立たす ひと声に炎揺り立つどんど焼 一声に炎揺り立つどんどかな ひとこゑに揺り立つ炎吉書揚 ひとこゑに揺り立つ炎どんど焼 夜の山の懐の灯よ初詣

東雲は舟のかたちや初筑波 東雲の舟のかたちや雑煮餅 東雲の舟のかたちや初手水

勿忘草群れて一花は翳の中 笹鳴や最も白き骨拾ひ 骨片の殊に白きを拾ふ冬 笹鳴の夜の骨壺の重さかな 骨片の軽し笹鳴地に伏する 骨片の軽し笹鳴地に鳴ける 骨片の軽し笹鳴地を歩む